Yasukuni: Futile Manipulation of a Diplomatic Symbol
HANABUSA Masamichi / Former Japanese Ambassador to Italy
January 14, 2014
Yasukuni: Futile Manipulation of a Diplomatic Symbol
HANABUSA Masamichi Former Japanese Ambassador to Italy
A vague sense of concern seems to pervade beyond the Pacific in America and even in Europe following Prime Minister Abe's visit to Yasukuni Shrine last December, while China and the ROK have responded to it negatively.
The writer is of the view that it is basically for the Japanese to judge whether it is appropriate for the Japanese Prime Minister to pay homage to the Shrine, as, whatever its implications may be, the act intrinsically is related to what lies at the inner soul of the Japanese people. Spiritual and religious inclinations of the Japanese people are difficult to explain. One thing is quite certain, however, that is, visiting Yasukuni Shrine, which I often do, and justifying the last war, which I don't, are two entirely different matters for the Japanese.
On the advent of the New Year, the Japanese of all echelons, visit shrines in many millions, prompted by their traditional inner feeling towards "kami," a transcendental higher being. Each year many millions of Japanese from all corners of the nation come to Yasukuni Shrine to pray for the souls of their kin who perished for the nation. Yasukuni visits are purely a domestic matter. Therefore, most Japanese would feel that it is an intervention into domestic affairs of Japan if foreign Governments make it an international issue although the act does not actually harm their concrete interests. As we look back, this issue has been used by China, later joined by the ROK, as a leverage to have a superior position vis-a-vis Japan in achieving their own diplomatic goals. In other words, the so-called Yasukuni issue has been turned into a diplomatic symbol. To the surprise and disappointment of many Japanese, even the US Government, although in a qualified manner, officially showed its "disappointment" at Abe's Yasukuni visit. There is something quite wrong about all this.
I wish to focus on the Chinese background; the Korean involvement in this seems to be simply emotional and opportunistic. Here in Japan situated historically and geographically close to China, it is generally believed that the Chinese Communist Party, which has long diverted from socialism, and now facing gigantic domestic problems, probably needs to legitimatize its one-party dictatorship on the historical claim that the Party fought against and won over Japanese imperialism. In the absence of "bad" " imperial" Japan, the Chinese Communist Party must build its own legitimacy on good governance and justice at home, the two very difficult tasks to achieve. It would be no exaggeration to say, therefore, that the recent Chinese leadership starting from Jiang Zemin has made efforts to perpetuate the image of 'dangerous Japanese imperialism' at home through systematic education and by finding fault with one after another of the so-called "history issues" with Japan, including the Japanese Prime Minister's visit to Yasukuni Shrine. Probably this convenient tactic has been employed by the Chinese leaders to gain time. The fact is after the normalization of relations with China in 1972, Japan has remained most friendly to China, providing both financial and technological resources in various forms, of course, out of remorse for Japan's horrendous deeds during the war. The situation did not improve but has rather worsened as China emerges as a powerful country.
Japan is a democracy where every freedom and individual right is guaranteed by law. Media activities are unbridled, and a high level of equilibrium is maintained among various domestic power elements. Under the circumstances, it is well-nigh impossible for any Japanese political leader to govern the nation in disregard of the wishes of the majority of people. Japan's post-war record of domestic politics clearly vindicates this contention. Deliberate denial of this reality would amount to an insult on Japanese democracy.
Politically almost all Japanese staunchly support the diplomatic orientation based on pacifism and international collaboration of the past nearly 70 post-war years. It is not possible for Prime Minister Abe to pursue diplomatic policies which run counter to this deep-seated national sentiment, however obstinately he might try.
The reason why Prime Minister Abe still enjoys over 50% popular support after one year since his inauguration is the realization on the part of the Japanese people that the past budgetary and financial policies had no future, whereas "Abenomics", aimed at the reflation of Japan's economy, so far seems successful. Calmly observed, his external policies have been rather moderate without taking any action to "undo" the results of WWII.
It is understandable that both China and ROK find it in their interests to see Japan continue its totally non-offensive defense policy followed consistently in the post-war period. If this is the case, it would be wiser for these nations to refrain from provocative acts and to resolve conflicts by peaceful means, preferably under the international judicial systems. If the acceptance of certain conditions is sought before starting dialogue or negotiations, the Japanese cannot but feel that what is sought is nothing but Japan's diplomatic submission. As long as the Yasukuni "issue" is manipulated in diplomacy, the Prime Minister's visit to the Shrine would be turned into a symbolic act of denial of diplomatic submission by Japan. Clearly in the eyes of third parties Japan's submission to China is not in their interests. For these reasons the writer wishes to maintain that the diplomatic manipulation of Yasukuni "issue" is futile and that he first key to the improvement of bilateral relations between Japan and China and ROK is swift abandoning of this futile effort.
Masamichi Hanabusa is Honorary Chairman of the ESUJ.
The English-Speaking Union of Japan
不毛なシンボル操作となった靖国参拝問題
英 正道 / 元駐伊大使
2014年 1月 14日
安倍総理の靖国神社参拝について中国や韓国の反発はさておき、太平洋を越えたアメリカ、更にはヨーロッパでも漠然とした危惧の念があるようだ。
筆者は首相の靖国参拝問題の適否は、参拝が色々な意味合いを持つことがあっても、この行為は本質的に日本人に固有の内なる精神構造に関わるものであるが故に、基本的に日本国民が判断するべき問題であると考える。日本人の精神的、宗教的な性向は説明するのが難しい。ただ一つ確かなことは、日本人に取って、筆者もしばしば行う参拝と、筆者が肯定しないあの戦争の正当化とは全く次元が異なることなのである。
元日には幾百万と言う日本人が、その地位の高下に関わらず、現世を超越した存在である「カミ」への伝統的な気持ちに促されて何らかの神社に参拝する。更には通年数百万の日本人が、全国津々浦々から、失った肉親を偲びその霊を安んずるために靖国神社に詣でている。靖国神社への参拝は純粋に国内問題なのである。だから大部分の日本人は外国政府が、参拝行為が外国に実害を与えていないのに関わらず、これを国際問題化するのは日本への内政干渉であると感じている。これまでの経過を振り返って見ると、靖国問題は後に韓国も加わったが、中国がその外交目的を実現する上で、対日優位に立つレバレッジの役割を果たしてきた。言葉を変えると、いわゆる靖国問題と言われるものは、外交上のシンボルに転化している。日本人が驚き失望したのは、今や米国政府まで、若干の説明付き乍ら、公式に安倍総理の靖国神社参拝に失望の意を表明した。筆者はここに至っては何か非常に間違っていると感じる。
筆者は背景となる中国の事情にまず触れたい。韓国の関与は単純に感情的かつ機会主義的である。歴史的、地理的に中国に隣接する日本では、社会主義から完全に逸脱した中国共産党が恐らく、自己の一党独裁支配を継続するための正統性を「日本帝国主義と戦いこれに勝利したという歴史」に求めていると、一般に信じられている。「悪役日本帝国主義」が無いと、中国共産党はその存立の基盤を、良き治世と国内正義の実現という極めて難しい目標に求めねばならなくなる。故に江沢民以降の中国指導者たちは、国内において組織的な教育により「危険な日本の帝国主義」のイメージを永続化する努力を行い、日本総理の靖国参拝を含むいわゆる歴史認識問題を次々に問題視して来たと言っても過言でないであろう。多分この都合の良い作戦は中国指導者たちによって時を稼ぐために使われているのであろう。事実は1972年の日中国交正常化後、日本は終始中国に友好的で、当然のこととして戦時中の恐るべき行為への良心の呵責から種々の形で資金的、技術的資源を提供し続けた。事態は改善せず、中国の国力が増大するに連れてむしろ悪化している。
日本は法によりあらゆる自由と人権が保証され、メデイアが自由に活動し、諸権力の間に高度の緊張関係が維持された民主主義国家である。このような状況の下で、日本の如何なる政治指導者といえども、国民の意思を反映しない政治を行うことは不可能である。日本の戦後の国内政治の軌跡がこのことを証明している。この事実を意図的に無視することは日本の民主主義への侮辱に等しいと言えよう。
政治的にほとんど全ての日本人は戦後70年近く続いてきた日本の平和主義と国際協調に基づく外交路線を支持している。安倍総理がいかに強引な人物であっても、この厳然たる国民感情に違背する外交政策は取り得ない。安倍総理が就任後1年を超えても50パーセントを超える驚異的に高い支持率を有しているのは、過去の財政金融政策の延長の上には日本の将来はないと言う認識が国民の間に定着し、彼のデフレ脱却を目的とする経済政策がある程度成果を上げていることの反映である。安倍政権のこの一年の対外政策は、冷静に観察すると、喧伝されるよりずっと穏健であり、「第二大戦の結果を覆す」ような行動は国際的に何一つ取っていない。
中韓隣国が、日本が戦後一貫して取ってきた専守防衛の防衛政策が変わらないことに利益を見い出していることは十分理解し得る。そうであるなら一層両国は挑発的な行動を控え、対立を平和的な手段、出来れば国際的な司法制度の活用により解決する方がより賢明である。中韓両国が、前提条件を置き、これを飲まない場合の対話や交渉を拒否すれば、日本人はこのような態度は日本に外交的屈服を求めている以外の何物でも無い受け取っても仕方が無い。靖国問題を操作すればするほど、参拝することは、日本側では外交的屈服を拒否するシンボルに転化してゆく。第三国に取っても、日本が中国に屈服することが利益でないことは明らかである。このような理由から筆者は、靖国参拝問題の外交的操作は不毛であり、中韓両国が速やかにまずこの不毛な努力を放棄することが、日本との二国間関係を改善に導く鍵であると考える。
(筆者は日本英語交流連盟 名誉会長。)
筆者は首相の靖国参拝問題の適否は、参拝が色々な意味合いを持つことがあっても、この行為は本質的に日本人に固有の内なる精神構造に関わるものであるが故に、基本的に日本国民が判断するべき問題であると考える。日本人の精神的、宗教的な性向は説明するのが難しい。ただ一つ確かなことは、日本人に取って、筆者もしばしば行う参拝と、筆者が肯定しないあの戦争の正当化とは全く次元が異なることなのである。
元日には幾百万と言う日本人が、その地位の高下に関わらず、現世を超越した存在である「カミ」への伝統的な気持ちに促されて何らかの神社に参拝する。更には通年数百万の日本人が、全国津々浦々から、失った肉親を偲びその霊を安んずるために靖国神社に詣でている。靖国神社への参拝は純粋に国内問題なのである。だから大部分の日本人は外国政府が、参拝行為が外国に実害を与えていないのに関わらず、これを国際問題化するのは日本への内政干渉であると感じている。これまでの経過を振り返って見ると、靖国問題は後に韓国も加わったが、中国がその外交目的を実現する上で、対日優位に立つレバレッジの役割を果たしてきた。言葉を変えると、いわゆる靖国問題と言われるものは、外交上のシンボルに転化している。日本人が驚き失望したのは、今や米国政府まで、若干の説明付き乍ら、公式に安倍総理の靖国神社参拝に失望の意を表明した。筆者はここに至っては何か非常に間違っていると感じる。
筆者は背景となる中国の事情にまず触れたい。韓国の関与は単純に感情的かつ機会主義的である。歴史的、地理的に中国に隣接する日本では、社会主義から完全に逸脱した中国共産党が恐らく、自己の一党独裁支配を継続するための正統性を「日本帝国主義と戦いこれに勝利したという歴史」に求めていると、一般に信じられている。「悪役日本帝国主義」が無いと、中国共産党はその存立の基盤を、良き治世と国内正義の実現という極めて難しい目標に求めねばならなくなる。故に江沢民以降の中国指導者たちは、国内において組織的な教育により「危険な日本の帝国主義」のイメージを永続化する努力を行い、日本総理の靖国参拝を含むいわゆる歴史認識問題を次々に問題視して来たと言っても過言でないであろう。多分この都合の良い作戦は中国指導者たちによって時を稼ぐために使われているのであろう。事実は1972年の日中国交正常化後、日本は終始中国に友好的で、当然のこととして戦時中の恐るべき行為への良心の呵責から種々の形で資金的、技術的資源を提供し続けた。事態は改善せず、中国の国力が増大するに連れてむしろ悪化している。
日本は法によりあらゆる自由と人権が保証され、メデイアが自由に活動し、諸権力の間に高度の緊張関係が維持された民主主義国家である。このような状況の下で、日本の如何なる政治指導者といえども、国民の意思を反映しない政治を行うことは不可能である。日本の戦後の国内政治の軌跡がこのことを証明している。この事実を意図的に無視することは日本の民主主義への侮辱に等しいと言えよう。
政治的にほとんど全ての日本人は戦後70年近く続いてきた日本の平和主義と国際協調に基づく外交路線を支持している。安倍総理がいかに強引な人物であっても、この厳然たる国民感情に違背する外交政策は取り得ない。安倍総理が就任後1年を超えても50パーセントを超える驚異的に高い支持率を有しているのは、過去の財政金融政策の延長の上には日本の将来はないと言う認識が国民の間に定着し、彼のデフレ脱却を目的とする経済政策がある程度成果を上げていることの反映である。安倍政権のこの一年の対外政策は、冷静に観察すると、喧伝されるよりずっと穏健であり、「第二大戦の結果を覆す」ような行動は国際的に何一つ取っていない。
中韓隣国が、日本が戦後一貫して取ってきた専守防衛の防衛政策が変わらないことに利益を見い出していることは十分理解し得る。そうであるなら一層両国は挑発的な行動を控え、対立を平和的な手段、出来れば国際的な司法制度の活用により解決する方がより賢明である。中韓両国が、前提条件を置き、これを飲まない場合の対話や交渉を拒否すれば、日本人はこのような態度は日本に外交的屈服を求めている以外の何物でも無い受け取っても仕方が無い。靖国問題を操作すればするほど、参拝することは、日本側では外交的屈服を拒否するシンボルに転化してゆく。第三国に取っても、日本が中国に屈服することが利益でないことは明らかである。このような理由から筆者は、靖国参拝問題の外交的操作は不毛であり、中韓両国が速やかにまずこの不毛な努力を放棄することが、日本との二国間関係を改善に導く鍵であると考える。
(筆者は日本英語交流連盟 名誉会長。)
一般社団法人 日本英語交流連盟